「ギとキ(義朱鷺)の旅」Part12
《平成年29年7月23日》

 
~ 岩槻城 ~

【平成29年7月23日(日)9時49分 埼玉県さいたま市岩槻区本町 東武野田線岩槻駅 雨】

 7月21日は長男翔の家に泊まり、昨日は孫を連れて遊びに行った後、夜は長女優と食事をし、ホテルは大宮のマドウドイン大宮に泊まりました。そして、朝ホテルを出て、大宮駅から東武野田線に乗って岩槻駅に到着しました。岩槻城を訪問するためです。

 岩槻城は文明10年(1478年)に古河公方方の成田正等により築城されたと言われています。その後、扇谷上杉氏と山内上杉氏の対立から関東も戦乱期に突入し、大永2年(1533年)、扇谷上杉氏の家臣太田資頼が岩槻城を奪取し、岩槻太田市の居城となりました。その後、伊豆・相模を手中に収めた北条氏が武蔵に進攻すると、岩槻城は北条氏に抵抗する太田資正の居城となりました。上杉謙信は、この太田資正の要請により永禄5年(1562年)に関東へ出兵しています。そして、翌年にも謙信は北条・武田5万の連合軍に攻められていた太田資正の武蔵松山城の救援に赴きましたが間に合わず、代わりに武蔵国の騎西城・忍城、下総国の関宿城・古河城を攻めて奪回し、下野こくの小山城・唐沢山城を攻め落としています。しかし、永禄7年に、資正の留守中に嫡子太田氏資が北条氏康に内応して資正を追放したため、岩槻城は北条方になりました。

 その後の岩槻城は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐の際に浅野長吉らによって落とされ、徳川家康の関東入りにより徳川譜代の高力清長が城主となり、以後、青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・藤井松平氏・小笠原氏・永井氏・大岡氏ら譜代大名の居城となり明治維新を迎えました。


 岩槻城には天守はありませんでしたが、その代わりとして本丸に2層2階の瓦櫓があり、その他に柿葺2層2階の二重櫓と柿葺1層1階の櫛形櫓が本丸にありました。現在は曲輪の一部が城址公園となっており、そこに黒門と裏門が移築されて残っています。本丸跡地は現在では住宅地になっています。


 岩槻駅東口を出ると南東へ歩き、岩槻駅入口の交差点を左折して直ぐに右折して住宅街を抜け、岩槻城址公園へ向かいました。

【10時30分 岩槻区太田 岩槻城址公園 雨】

 岩槻城址公園に着いたのは10時30分のことでした。公園の中央を貫く道路を歩いて行くと左手に城門が見えて来ました。これは移築された黒門で、廃藩置県に伴う廃城で城内から撤去されたものが、昭和45年(1970年)に移築されたものだそうです。黒門を見てから道路に戻り、少し歩くと道路の直ぐ右手に城門が見えて来ました。これは「裏門」で、廃藩置県による廃城の際に民間に払い下げられていたものが、岩槻市に寄贈され、昭和55年(1980年)に移築されたものだそうです。

 2つの城門を見て、更に先へ進むと城址公園を抜けてしまいました。そこから引き返し、城門の東側へ入って行くと土手と土手の間に道が続いていました。これは堀障子と呼ばれる城の堀に設けられた障害物で、新曲輪と鍛冶曲輪の間にある空堀です。堀に入った的の移動を妨げたり、飛び道具の命中率を高める役割の担っていました。この堀障子の中を半時計回りに歩いて行くと、堀は城址公園の北東川の元荒川沿いの道路に接する辺りで無くなっていました。  そこから城址公園の中央部へ入り、新曲輪と鍛冶曲輪の跡地の周りの池を歩き、11時21分(雨)に城址公園を後にしました。

【12時5分 岩槻駅 雨】

 城址公園を出ると、県道2号線を南西に歩き、更に国道122号線を進んで、岩槻駅入口の交差点を右折して、さいたま市岩槻区役所を右手に見ながら進んで、12時5分に岩槻駅に到着しました。そして、電車に乗る前に昼食を食べた後、羽田空港に向かって、空路帰宅しました。

《埼玉県さいたま市岩槻区で見かけた鳥達》

[ハト目]〔ハト科〕キジバト
[ペリカン目]〔サギ科〕チュウダイサギ
[スズメ目]〔カラス科〕ハシボソガラス、ハシブトガラス〔ツバメ科〕ツバメ
       〔ヒヨドリ科〕ヒヨドリ〔スズメ科〕スズメ
以上3目6科7種