「ギとキ(義朱鷺)の旅」Part13
《平成31年3月29日》

 
~ 大坂冬の陣 古戦場 ~

【2018年(平成30年)9月24日(月・秋分の日振替休日)9時12分 大阪市中央区大阪城 大阪城公園駅 晴れ】

 2018年の9月は3連休が2回ありましたが、その後半の秋分の日を挟む3連休を利用して、22日(土)には大阪城公園ナイトハーフマラソンに出場し、翌23日(日・秋分の日)は東海道本線沿いを歩きました。そして、最終日の24日(月・秋分の日の振替休日)は、大阪冬の陣の際に上杉景勝が戦った古戦場を訪ねました。
 大坂冬の陣は、1614年(慶長19年)に江戸幕府と豊臣家との間で行われました。豊臣秀吉の没後、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍を破った徳川家康は頭郡についた武将に豊臣家の直轄地の役4分の3を恩賞として与えて豊臣家の力を削ぎました。その後、1603年(慶長8年)2月12日に征夷大将軍に就任した家康は豊臣秀頼に臣下の礼をとるよう求めましたが、淀殿らが反対し実現しませんでした。そして、双方が戦の準備を進めていたところ、家康が方広寺鐘銘事件で因縁を付け、両者の対立は決定的になりました。1614年(慶長19年)10月11日、家康は軍勢を率いて駿府を出発しました。そして、23日には二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢を率いて江戸を出発しました。幕府方の動員した兵力は約20万人に上りましたこれに対し、豊臣家は11月3日、旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばして戦争準備に入りました。しかし、浪人衆は全国から召し抱えられたものの、大阪城へ馳せ参じる諸大名はいませんでした。明石全登、後藤基次(又兵衛)、真田信繁(雪村)、長宗我部盛親、毛利勝永の五人衆の他、塙直之、大谷吉治ら集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人でした。真田信繁らの浪人衆は、まず畿内を制圧して関東の徳川と西国の諸大名を遮断し、近江国の瀬田川まで軍を進めて関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃って足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みがないときに初めて城に籠もって戦うという二段構えの作戦を主張しましたが、豊臣家宿老の大野治長ら豊臣家家臣は籠城を主張して、2派に分かれていましたが、豊臣家家臣の籠城案が採用されました。一方、家康は11月15日に二条城を出発し、奈良経由で大阪に向かい、18日には先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行いました。そして翌19日、木津川口の砦において戦闘が始まりました(木津川口の戦い)。
 その後、26日には鴫野・今福の戦いがありました。この戦いは大阪城の北東方向の近くにあった鴫野村及び今福村で行われましたが、両村は当時の大和川を挟んだ位置にありました。現在では、JR鴫野駅付近が鴫野村、寝屋川を挟んでその東北にある城北川を挟む区域が今福村にあたります。徳川方は大阪城を攻めるにあたってこの2カ所を足掛かりとするため、上杉家と佐竹家に攻略を命じました。豊臣方はここに砦を築いていましたが、上杉軍は鴫野へ、佐竹軍は今福へ向かい戦闘が始まりました。今福では豊臣方の守備兵が約300人と少なかったこともあり、佐竹軍は一時砦を占拠しました。しかし、木村重成が大阪城から反撃し、さらに後藤又兵衛基次も救援に駆けつけ、佐竹軍は退却せざるを得なくなりました。一方の鴫野でも上杉軍が順調に攻め進み村を攻め取りそうになったところで、大阪城から大野治長や秀頼の旗本衆が加勢に駆けつけ、数の上では約5千人対約1万4千人で上杉軍が劣勢となりました。そこで、一時的に押し返されましたが、一旦引いて軍勢を左右に分かれて退かせ、目の前が開けたところで鉄砲の一斉射撃から槍兵の側面からの突撃という戦法で援軍まで打ち破りました。その後、鴫野の上杉軍に対岸の佐竹軍から救援要請があり、上杉景勝は水原親憲の隊に大和川の渡河を命じ、佐竹軍と対峙していた後藤隊・木村隊を大阪城へ退却させました。こうして、上杉軍の活躍により大坂冬の陣の緒戦は徳川軍の勝利に終わりました。
 その上杉軍が活躍した古戦場を訪れるため、前夜宿泊していたホテル新なんば1号館を8時23分(晴れ)に出発し、なんば駅から大阪メトロ千日前線に乗り、鶴橋駅でJR大阪環状線内回りに乗り換えて、9時頃に大阪城公園駅に到着しました。このルートは一昨日の大阪城公園ナイトハーフマラソンへ行ったときと同じです。そして、コインロッカーに荷物を預けて、9時12分(晴れ)に大阪城公園駅を出発しました。駅から玉造筋を北に歩いて第二寝屋川に架かる弁天橋を渡り、第二寝屋川を東に歩いて遡り、9時19分(晴れ)に鴫野西に入りました。旧鴫野村で鴫野・今福の戦いが行われた古戦場の筈です。しかし、今では建物が建ち並んでおり、古戦場の面影はありません。それは当然、予想できたことでしたので、大して気にとめることもなく川沿いに歩き、鴫野西公園の前を左折して北上し、鴫野小学校の前を通って城見通に突き当たって左折して西進し、鴫野会館前を右折して北上しました。そして、寝屋川の手前で右折して東へ歩き、城陽中学校を北から東へ回るように歩き、南へ向きを変えて鴫野駅前を通過し、城東中央病院の横を通って、再び第二寝屋川に達しました。
 そして、今里筋を北へ歩き、次の信号で今里筋を渡って鴫野東へ入りました。それから再び南下して第二寝屋川まで戻って土手沿いに東進し、次の橋のところを左折して北上し、鴫野東公園を右に見ながら更に北へ歩いて、城東小学校に突き当たると学校を反時計回りに歩いて回りました。すると、小学校の校庭の東端に「大阪冬の陣」という石碑があり、近くには「鴫野古戦場跡」という説明看板がありました。今は当時の面影はありませんが、そうなんだと思って小学校の校庭を眺めました。
 鴫野東を北へ歩いて、寝屋川の新喜多大橋を渡り、10時37分(曇り)に今福南に入りました。旧今福村です。そこから寝屋川沿いを東へ歩いて川を遡り、次の橋の北詰を左折して北上し、今福西へ向かいました。途中、「旧野崎道の跡」という石碑がありました。近松半二作の浄瑠璃「新版歌祭文」で有名になった、春秋2回行われた無縁経の法会に、屋形船で参拝に来る人と、陸路を来る人とがののしり合う奇習があったという野崎参り(野崎詣)の記念碑です。



近松半二作の浄瑠璃「新版歌祭文」で有名になった、春秋2回行われた無縁経の法会に、屋形船で参拝に来る人と、陸路を来る人とがののしり合う奇習があったという野崎参り(野崎詣)の記念碑です。

 更に北上して10時54分(曇り)頃、今福西に入る入る辺りで「大阪冬の陣古戦場・今福蒲生の戦い跡」という石碑を見かけました。



今福村を攻撃していた佐竹軍が木村重成隊と後藤又兵衛隊の反撃によって窮地に陥っていたときに、上杉軍が救援に駆けつけ、大阪軍を退却させた戦いの古戦場です。
また、石碑の横には看板がありましたので、今福の戦いについて書いてあるのかとおもいましたが、「今福の丸木舟出土跡」という看板でした。それによると1917年(大正6年)の鯰江川の工事の際に川底から古墳時代から奈良時代のものと思われる楠の大木を半分に割ってくりぬいた大きな丸木舟が出土した跡だとのことです。この辺りは水上交通の要所だったようです。そして、今福の戦いの看板は近くにあり、「今福・蒲生 激戦地の跡」という名で戦いの様子が描かれていました。
 その後、北へ暫く歩いてから右折して東へ歩いて11時10分(曇り)頃に今福東へ入り、また右折して南下し、今福南の手前で右折して西へ歩いて、11時29分(小雨)に今福西へ戻り、更に西へ歩いて11時40分(曇り)に蒲生との境に達して左折した南下し、寝屋川を渡って11時42分(曇り)に鴫野東へ戻り、更に南下して第二寝屋川を渡って、11時54分(曇り)に中浜に入りました。中浜は上杉景勝が布陣した場所です。その長浜を一周してから再び寝屋川を渡って鴫野西へ入り、大阪城を経由して、12時28分(曇り)に大阪城公園駅へ戻りました。
 こうして、上杉景勝が活躍した大阪夏の陣の古戦場巡りを終え、帰路に就きました。

《大阪冬の陣古戦場跡(大阪府城東区)で見かけた鳥達》
[カモ目]〔カモ科〕カルガモ
[ハト目]〔ハト科〕カワラバト
[カツオドリ目]〔ウ科〕カワウ
[ペリカン目]〔サギ科〕アオサギ、コサギ
[スズメ目]〔カラス科〕ハシボソガラス、ハシブトガラス
      〔ヒヨドリ科〕ヒヨドリ〔スズメ科〕スズメ〔セキレイ科〕ハクセキレイ
 以上5目8科10種