「ギとキ(義朱鷺)の旅」Part14
《平成年31年3月22日》

 
~ 古河公方館跡 ~

【2019年(平成31年)3月22日(金)14時39分 茨城県古河市鴻巣中山 古河公方公園(古河総合公園) 晴れ】
 この日の午前中、東京で仕事がありましたが、折角、金曜日に東京に来ながら、その日に帰ってしまうのは航空運賃がもったいないので、帰りは日曜日の午後ということにしました。そして、明日は一人箱根駅伝の6区山下りをすることにしていましたので、この日の午後は空いた時間を利用して、茨城県古河市にある古河公方館跡を訪れました。実は、同じ2019年3月の10日に第7回サンスポ古河はなももマラソンを走ったのですが、古河を「ふるかわ」とばかり思っており、古河公方の「こが」だとは思っていませんでした。そして、実際に古河市へやって来てから、ここが古河公方縁の地であることを知りました。しかし、列車の遅延のため大会前夜に古河市に着いた時には辺りはすっかり暗くなっており、観光することはできませんでした。また、大会終了後は二男駿に会うために会場から真っ直ぐ新宿へ向かったのと、すごく疲れていたので、大会当日も観光はできませんでした。そこで、今日こそはと思っていましたが、前夜、長女優と会い、オイスターバーへ行き、牡蠣を1人10個位食べたところ、酷い下痢で夜中は勿論、朝起きてからも30分毎にトイレに行く始末で、仕事中にも何回かトイレに行きました。それでも何とか仕事を済ませ、昼食は控えめにうどんを食べたところ、何とか下痢は治まったので、古河市へ向かいました。

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1349年(貞和5年)、室町幕府は関東10カ国を統治するために鎌倉府を設置しましたが、その長官が鎌倉公方と呼ばれていました。関東10カ国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐です。鎌倉公方は鎌倉殿とも呼ばれていましたが、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎません。鎌倉公方の当初の正式な役職名は関東管領であり、上杉氏は執事でしたが、やがて執事家が関東管領となり、本来の関東管領家は鎌倉公方になりました。鎌倉公方は足利尊氏の四男足利基氏の子孫が世襲しました。鎌倉公方は、1349年に足利尊氏と弟・足利直義が対立した際、直義に代わって政務を執るため上京した足利義詮の後を継いで鎌倉に下向した足利基氏を初代とし、関東管領を補佐役として関東10カ国を支配しました。しかし、代を重ねるに従って幕府と対立するようになりました。そして、永享の乱では関東管領上杉憲実とも対立し、第4代鎌倉公方持氏が敗れて、1439年に自害されられ、鎌倉公方は断絶しました。
足利義教の死後、1447年に持氏の遺児成氏が幕府から第5代鎌倉公方就任を許されて復活しましたが、後に幕府と対立しするようになりました。しかし、小山氏・結城氏・宇都宮氏・千葉氏・那須氏・小田氏等の伝統的豪族と、関東管領山内上杉家・扇谷上杉家との緊張関係は改善されず、1450年(宝徳2年)には山内上杉家の家宰長尾影仲と扇谷上杉家の家宰大田資清が成氏を襲撃する江の島の合戦が起こりました。難を逃れた成氏は、その後の1454年(享徳3年)に関東管領上杉憲忠を謀殺し、享徳の乱が勃発しました。分倍河原の戦い・小栗城(筑西市)の戦い等、初戦は成氏方が優勢でしたが、室町幕府は成氏討伐を決め、同年6月に上杉氏援軍の今川範忠が成氏が遠征中で留守の本拠地鎌倉を攻め、制圧しました。このため成氏は下総国古河を新たな本拠地として「古河公方」と名乗るようになり(享徳の乱)、古河公方が始まりました。
1458年(長禄2年)、室町幕府は足利政知を新たな鎌倉公方として東下させましたが、正知は鎌倉へ入ることができず伊豆の堀越を御所としたため、堀越公方と呼ばれました。その後、約30年間にわたり、主として下野国・常陸国・下総国・上総国・安房国を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、主として上野国・武蔵国・相模国・伊豆国を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉氏・扇谷上杉氏とが、関東を東西に二分して戦いました。長年に渡って一進一退の戦況が続きましたが、1476年(文明8年)、山内上杉氏家宰の後継争いに端を発した長尾景春の反乱が発生するなど、上杉氏内部の矛盾が大きくなり、古河公方足利成氏と幕府との間に1483年1月6日(文明14年11月27日)、和睦が成立しました(都鄙合体)。この和睦により堀越公方は伊豆一国を支配することとなり、実質的には古河公方成氏は神東公方の地位を幕府に承認されました。しかし、古河公方と堀越公方の並立、山内・扇谷上杉氏管の抗争の勃発など、不安定な状態は継続し、成氏が鎌倉に戻ることはありませんでした。しかし、古河公方は関東公方と鎌倉府奉公衆の後身である近習が政務を行う体制に規模を縮小させたものの、享徳の乱終了後は関東管領と共に関東地方を支配する形態(公方-管領体制)を曲がりなりにも1570年代まで継続させました。
享徳の乱の際に、足利成氏が古河を新たな本拠地として選んだのは、以下の理由によると考えられています。まず、鎌倉公方の経済的基盤である御料所が下河辺荘を中心とした関東平野の中心部にあり、下河辺荘の拠点である古河は経済的に適地であったことです。次に成氏の古河移座当時、下野国・下総国全体と常陸国の大半が古河公方の勢力下にあり、上野国・武蔵国の大半と相模国・伊豆国全体が上杉氏の支配下にあり、上野国東部・武蔵国北東部・常陸国南部が係争地でしたが、古河は各地に散在する支持勢力の中心にあり、これらを束ねる扇の要の位置にあったことです。また、古河は水上交通の幹線となる河川が集まる交通の要所であったことです。更に、利根川や渡良瀬川を始めとする大小河川や湖沼・湿地が、上杉勢に対する天然の堀となり、守りやすい地形であったことです。成氏の移座により、古河は第二の鎌倉となり、鎌倉府から受け継いだ政治・権力・組織は古河府と呼ばれるようになりました。古河には鎌倉から多くの奉公衆やその他の家臣、僧侶、文化人が移住して来ました。また、古河城の城下には、廻船・陸運業、倉庫・金融業を営む特権商人や馬具作りなどの職人集団が住み、経済・医療・技術・宗教・文化面でも東国の最先端地になりました。
享徳の乱集結後、山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が始まりました。扇谷上杉定正が家宰・太田道灌を暗殺した直後の1488年(長享2年)、山内上杉顕定が扇谷上杉勢への攻撃を始めると、扇谷上杉定正は古河公方足利成氏・政氏らの支援を得て反撃し、相模実蒔原・武蔵須賀谷原・武蔵高見原の合戦で優位に立ちました。しかし、1494年(明応3年)に扇谷上杉定正が陣中で急死した後、家督を継いだ扇谷上杉朝良が駿河国の今川氏親や伊勢宗端(北条早雲)らの支援を得る一方で、今度は山内上杉顕定が第2代古河公方足利政氏らの支援を得て再度対陣し、1504年(永正元年)武蔵立河原で扇谷上杉勢が大勝したにも関わらず、1505年(永正2年)に山内上杉勢が扇谷上杉朝良の本拠川越城を攻撃すると、扇谷上杉朝良は山内上杉顕定に和睦を申し出て乱が終わりました。この抗争の中で、山内上杉顕定は古河公方足利政氏との結びつきを強化しました。堀越公方の滅亡、扇谷上杉朝良と伊勢宗端(北条早雲)等の外部勢力との結びつきなどにより旧来の秩序が不安定になると、山内上杉顕定は関東管領として古河公方足利政氏の下に出資し、更に足利政氏の弟を養子に迎えて後継者顕実とするなど、関東管領を古河公方の御一家となすことで、公方-管領体制の再構築と秩序回復を求めました。
1506年(永正3年)、第2代古河公方足利政氏の嫡子足利高基は、政氏との不和が原因で、義父宇都宮成綱を頼って下野宇都宮へ移座し、公方家を揺るがす内紛(永正の乱)が始まりました。1509年(永正6年)、山内上杉顕定らの調停により、足利高基は足利政氏と和解して古河へ帰座しましたが、翌1510年(永正7年)に上杉顕定が越後で戦死すると、足利高基は再び古河城を離れて公方家重臣梁田高助の間宿城へ移座しました。同時に山内上杉家でも家督争いが始まり、足利政氏は上杉顕実を、足利高基は上杉憲房を支援し、公方家と関東管領家にまたがる内紛に拡大しました。1512年(永正9年)、上杉憲房が上杉顕実の本拠武蔵鉢形城を攻略した後、上杉顕実は足利政氏を頼って古河城に逃走し、その直後に足利政氏も小山成長を頼って小山祇園園城へ移座しました。古河城へは代わりに足利高基が入り、第3代古河公方の地位を確立し、「公方-管領体制」は、足利政氏・上杉顕定(顕実)体制から、足利高基・上杉憲房体制に代わりました。後に上杉憲房も足利高基の子を養子に迎えて、関東管領の後継者(上杉憲寛)としました。1516年(永正13年)、足利高基方の宇都宮成綱が縄釣りの戦いで足利政氏方の佐竹義舜・岩城由隆に勝利したことや、足利政氏方の那須氏が宇都宮氏と同盟を結び、足利高基方に寝返ったことや、小山氏内部において足利高基を支持する小山政長らが主導権を握ることになり、足利政氏の敗北は確定的になりました。足利政氏は扇谷上杉朝良を頼って岩槻城へ移座し、1518年(永正15年)に上杉朝良が死去すると、今の埼玉県久喜市の甘棠院で隠棲しました。

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足利高基の弟義明は、雪下殿(鶴岡八幡宮若宮別当)の地位にあり、空然と称していましたが、還俗して義明と改名しました。空然(義明)も、第5代鎌倉公方足利成氏の時代に、弟の定尊が雪下殿として寺社による地方支配体制「公方-社家体制」を支えて公方権力の一翼を担っていたのと同様な立場でした。永正の乱当初は足利義明は足利高基に協力していましたが、足利高基が古河公方の地位を確立すると、独立して行動するようになりました。1517年(永正14年)、上総の真理谷武田氏が、足利高基側の下総・原氏から小弓城を奪取すると、足利義昭は下河辺庄高柳(現・久喜市高柳)から小弓城に移座し、自らを足利政氏の後継であるとして、嫡流を足利高基と争い、小弓公方と呼ばれました。これにより公方権力は分裂し、その一翼を担っていて「公方-社家体制」も崩壊しました。小弓公方は、扇谷上杉朝義及び安房国の里見氏、常陸国の小田氏・多賀谷氏、真理谷武田氏、北条氏綱らに支持された大勢力でした。それから各地で激戦が繰り広げられましたが、1533年(天文2年)及び1534年に、小弓公方の支持基盤であった安房国の里見氏、上総国の真理谷武田氏において、相次いで家督争い起こり、足利義明は里見義豊・真理谷信応を指示し、北条氏綱は里見義尭・真理谷信隆を支持しました。この家督争いの結果、真理谷武田氏は衰退し、同じ頃に後北条氏の武蔵侵攻を受けて、扇谷上杉氏の勢力も後退しました。1531年(享禄4年)、古河公方が足利高基から嫡男の足利晴氏へ、関東管領が足利高基の二男上杉憲寛から嫡流の上杉憲政に代わりました。足利晴氏が第4代古河公方となった後の1538年(天文7年)、足利晴氏の上位を得た後北条勢が下総国府台に進出した小夢勢を打ち破りました(国府台合戦)。この合戦で、小弓公方足利義明が敗死し、小弓公方は滅亡し、古河・小弓分裂状態が解消されました。
第4代古河公方足利晴氏は北条氏綱の力を借りて国府台合戦に勝ちましたが、これを機会に古河公方体制内での後北条氏の影響力が大きくなり、1539年(天文8年)、北条氏綱の娘が足利晴氏のもとへ入稼し、次の古河公方となる足利義氏を産み、後に芳春院となりました。以後、北条氏綱は自らを古河公方足利氏「御一家」・関東管領であると勝手に名乗り、後北条氏に警戒心を抱く周辺の伝統的豪族に対し、関東支配の正当性を主張するようになりました。扇谷上杉氏は、野望に燃える後北条勢の度重なる攻勢で、1524年(大永4年)に江戸城と岩槻城を続けて失い、1537年(天文6年)には本拠の川越城も落城しました。しかし、1541年(天文10年)、北条氏綱が死亡すると、扇谷上杉朝定と山内上杉憲政は、駿河の今川義元と計って後北条勢を挟撃し、1545年(天文14年)には川越城を包囲しました。古河公方足利晴氏は、後北条家を継いだ北条氏康の要請により当初は静観していましたが、後に関東管領上杉憲政の求めに応じ、自ら兵を率いて川越城攻撃に参加しました。しかし、1546年(天文15年)の川越合戦において、両上杉・古河公方連合軍は後北条勢に敗れ、扇谷上杉朝定は敗死し、山内上杉憲政は上野平井城に、古河公方足利晴氏は古河城に敗走しました。その後、山内上杉憲政は越後国へ逃れ、後北条氏は上野国も勢力に納めました。劣勢になった古河公方足利晴氏は、後北条氏の介入により、やむなく次の古河公方になるはずだった足利藤氏を廃嫡し、北条氏康の甥であり婿である足利義氏を第5代古河公方にしました。足利藤氏は後北条氏の庇護の下に公方権力を行使し、後北条氏が関東諸豪族へ介入するようになりました。1554年(天文23年)、第4代古河公方足利晴氏と足利藤氏は古河城に籠城して後北条勢に抵抗しましたが、かなわず、足利晴氏は相模の秦野に幽閉されました。1557年(弘治3年)、足利晴氏は古河城に戻り再度抵抗を企てましたが、後北条氏に近い公方重臣の野田氏によって栗林城に幽閉され、1560年(永禄3年)に没しました。1558年(永禄元年)、鎌倉にいた第5代古河公方足利義氏は古河に近い関宿城に移座しました。
1560年(永禄3年)、北条氏康が隠居し、北条氏政が家督を継ぎました。その直後、長尾景虎(上杉謙信)は将軍足利義輝から御内書を得た上で、越後に逃れていた関東管領山内上杉憲政を奉じて三国峠から上野に進出しました。謙信による関東侵攻の開始です。1561年(永禄4年)、景虎は第5代古河公方足利義氏の関宿城を包囲し、古河城へは景虎が擁立した正統な古河公方足利藤氏が入りました。この時、景虎を支援する近衛前久と上杉憲政も古河城へ入りました。足利義氏は後北条氏側へ参陣するよう関東諸士に対して多くの軍勢督促状を発給しましたが、結局、古河城に近い関宿城から退去しました。同年、景虎は後北条氏の本拠・小田原城を攻撃しましたが、落城には至らず、撤退しました。その直後、景虎は上杉憲政から山内上杉家の名跡を譲り受け、関東管領も引き継ぎました。こうして、幕府も認める正統な古河公方足利藤氏・関東管領上杉政虎(謙信)と、自称古河公方足利義氏・関東管領北条氏政が、互いに攻防を繰り返しました。そして、1562年(永禄5年)、政虎が関東にいない間に北条氏照るの構成を受けて、足利藤氏・上杉憲政らが古河城から退去しました。
1569年(永禄12年)、武田信玄の動向を警戒した上杉輝虎(謙信)と北条氏政との間に越相同盟が成立し、足利義氏は古河城に入り、古河公方の地入り確立しました。しかし、古河公方及び関東管領の地位を争っていた両者が同盟したことは、関東管領への関心が薄れ、公方-管領体制が機能を失ったことを示しています。越相同盟以後、後北条氏の関東支配が確定的になると、古河公方を擁立する必要性が低下し、1583年(天正11年)、第5代古河公方足利義氏が男子を残さずに没した後も、何ら対策がとられないまま、古河公方は自然に消滅しました。
なお、その後も古河城には、足利義氏の娘・氏姫を擁した古河公方の宿老・家臣団がおり、古河足利家自体は引き続き存続しました。1590年(天正18年)に後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、古河城に残された氏姫と、小弓公方の子孫である足利国朝との婚姻を成立させて、下野国喜連川に所領を与えました。この古河公方の末裔は、江戸時代には喜連川氏と称し、大名格として明治まで続きました。喜連川氏は徳川家の家来筋ではないという江戸時代に得意な武家であり、明治維新後に足利姓に服し、現代まで存続しています。
新宿駅からJR湘南新宿ラインで大宮駅まで行き、JR東北本線に乗り換えて、約一時間程で古河駅に到着しました。そして、バスに乗って、古河公方公園(正式名称「古河総合公園」)に向かいました。ちょうど古河公方公園では3月20日から4月5日まで第43回古河桃まつりが開催されており、臨時バスも出ておりましたので、運良く、あまり待たずにバスに乗ることができました。
14時39分に古河公方公園へ到着し、臨時バスのりばから公園内へ入ってから、桃まつりの会場とは反対側の北へ歩き、大賀蓮池の方へ向かいました。池の東側には桃林が拡がっています。私は桃の花に興味があったわけではないのですが、この公園には5種類の花桃があるそうです。花桃目当ての観光客に紛れて桃林を散策しました。すると「史跡古河公方足利義氏墓所」という石柱がありました。この場所には、第5代古河公方足利義氏の息女・氏姫の法号から徳源院と称した寺がありました。興王山徳源院は、鎌倉円覚寺の末寺・臨済禅寺で、夢想国師あるいは大円国師の開山と伝えられています。長谷(今の桜町)の永仙院(ようぜんいん)、牧の地の松月院と共に、古河公方が開基した足利三カ院の一つです。寺号は、はじめは第3代古河公方足利高基の妻の法号・瑞雲院から、第4代古河公方足利晴氏の妻の法号・芳春院と変わり、さらに1620年(元和6年)5月6日に第5代古河公方足利義氏の娘・氏姫の死去により、その法号・徳源院に改められました。古河公方足利氏の女性に縁の寺院であったことから、第5代古河公方足利義氏の以外の一部が葬られました。正面の石碑は1926年(大正15年)に建てられた「古河公方義氏公墳墓」の標石、左の石囲いの中には氏姫の宝篋印塔があり、さらに氏姫の子・義親の宝篋印塔、足利義氏の遺骸の一部が葬られた土塚もあります。
徳源院跡の見学を終え、再び花桃の林を散策し、桃まつりの会場を抜けて、公園の南端にある御所沼に架かる橋を渡って、少し小高い丘に登りました。桃まつりの会場マップには「公方様の森」と書かれています。この一画に古河公方館跡という石碑がありました。古河公方館跡は、1455年(康正元年)に鎌倉から古河の地に移った初代古河公方足利成氏が居城とした渡良瀬川沿いの古河城の別館で、1627年(寛永4年)に廃止されるまでの「鴻巣御所」と呼ばれていました。古河城南東の御所沼の中に突き出た半島に位置し、二重の堀に囲まれていました。現在でも、石碑の西側には堀跡・土塁が残っています。しかし、同じく公方様の森にある旧中山家住宅や旧飛田家住宅は建物もあり見学に値していますが、それに比べて古河公方館跡の方は見栄えがしませんでした。
その後、桃まつりのステージのあるメイン会場を歩き、臨時バスのりばに戻ってから、16時2分(晴れ)に古河駅へ向かいました。本当は古河城跡も見学したかったのですが、翌日の一人箱根駅伝六区に備えて前泊地の小田原へ移動しなければならなかったので、古河城跡は次回にして古河市を後にしました。

《古河公方公園(古河総合公園)(茨城県古河市鴻巣中山)で見かけた鳥達》
[キジ目]〔キジ科〕トウカイキジ
[カモ目]〔カモ科〕カルガモ、コガモ
[ハト目]〔ハト科〕キジバト[カツオドリ目]〔ウ科〕カワウ
[ツル目]〔クイナ科〕オオバン
[スズメ目]〔カラス科〕ハシボソガラス、ハシブトガラス〔シジュウカラ科〕シジュウカラ
〔ヒヨドリ科〕ヒヨドリ〔ヒタキ科〕ツグミ〔スズメ科〕スズメ
〔セキレイ科〕ハクセキレイ〔アトリ科〕カワラヒワ
以上6目12科14種