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〒698-0025 島根県益田市あけぼの西町8番地12

司法書士・行政書士田𠩤良隆事務所

七尾城跡の紹介

七尾城趾の鳥達

七尾城跡地域に生息する鳥たちの紹介

七尾城「益田藤兼の墓」

七尾山中腹の住吉神社の南南西約300mには益田氏第19代当主益田藤兼の墓があります。
藤兼は享禄2年(1529年)に当地で生まれ、11歳で将軍足利義藤から一字を授けられ藤兼と称しました。初陣は15歳の時の第1次月山富田城の戦いでした。そして、翌天文13年(1544年)、祖父益田宗兼の死去に伴い、父尹兼を飛び越して益田氏の家督を承継しました。藤兼は大内義隆の家臣でしたが、天文20年(1551年)、陶晴賢が大内義隆に謀反を起こすと、益田氏と陶氏は姻戚関係であったことから、陶氏に協力し、義隆を自害させています。その後、天文24年(1555年)の厳島の戦いで、毛利元就が陶晴賢を破り、弘治2年(1556年)に元就の二男吉川元春が石見に侵攻すると、藤兼は七尾城を増改築し、三宅御土居から七尾城へ移り住みました。しかし、毛利勢には抗しきれず、弘治3年(1561年)3月、藤兼は降伏しましたが、吉川元春の口利きで助命されたばかりか、本領を安堵されています。その後、毛利勢の一員として尼子氏との戦いに参加し、永禄9年(1566年)の第2次月山富田城の戦いで尼子氏を破っています。そして、分家の三隅氏を滅ぼし、周布氏を従えて、勢力を拡大しました。藤兼は従五位上右衛門佐、越中守、治部大輔、従四位侍従などを歴任し、慶弔元年12月1日(1597年1月18日)に、その生涯を終えました。

平成24年10月1日

七尾城「医光寺総門」

七尾山中腹の住吉神社の北北西約800mには医光寺があります。昭和34年9月1日島根県指定有形文化財である医光寺の総門は、高さ4m、幅4.5mで、元々は七尾城の大手門でした。ところが1600年、益田氏が臣従する毛利氏が属する西軍が、関ヶ原の戦いで敗れ、益田元祥は毛利氏に従って山口県萩市須佐へ移封されたため七尾城が廃城となったので、その大手門を移築したものです。この医光寺総門の説明版には、次のように書かれています。
高麗門(こうらいもん)形式の門で、屋根は切妻造り(きりづまづくり)、本瓦葺(ほんがわらぶき)、中央を高くし、両側を一段低くした構造になっています。
この門は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、益田氏20代元祥(もとよし)の長門国須佐(ながとこくすさ)への移住に伴い廃城となった七尾城の大手門(おおてもん)を移築したものと伝えられています。
七尾城の大手(城の正面)は、医光寺から向かいの南側に見える七尾城山の中央の谷あいと考えられています。南北朝時代には当時の大手口「北尾崎木戸」(きたおざききど)で三隅(みすみ)方との合戦があったことが益田家文書に残っています。
17世紀後半に屋根を改めたといわれ、全面の都市計画道路中島染羽線の整備に伴い、平成4年度に本堂から中門の延長線上に若干位置を移動し、解体修理が行われました。
構造、意匠とも簡素ですが、本柱(ほんばしら)、冠木(かんぎ)ともに太く、戦国時代末期の豪壮な城門の姿を残す貴重な建造物です。

平成24年1月13日

七尾城「住吉神社」

七尾山の中腹には、住吉神社があります。住吉神社は、七尾城築城とともに上府から一の丸に移されました。現在の社殿は寛文4年(1664年)に改築されたものだそうです。
「益田七尾山 住吉神社御神徳記」によると、祭神は底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)及び表筒男命(うわつつのおのみこと)の住吉三神並びに息長帯姫命(いきながたらひめのみこと)(神功皇后)を加えた住吉大神である。海の神、航海の神であることから、朝鮮や中国との交易があった益田氏が航海の無事を祈って祭ったものと思われます。
益田氏は氏の長者で摂政・関白を務めた藤原忠平(880~949年)の9世の子孫で石見守藤原国兼を祖としています。国兼は永久2年(1114年)に石見に赴任し下向しましたが、永久6年(1118年)に任期が終了しても石見に留まり、土着の豪族となりました。そして、当初は石見上府(浜田御神本)に拠点を構えて御神本氏と名乗っていましたが、4代兼高が建久9年(1192年)に居館を益田に移すとともに、益田氏を名乗るようになりました。住吉神社は、この時に上布から移され、現在に至っています。

平成23年11月30日

七尾城「千畳敷」

太鼓の段(壇)の北側には千畳敷と呼ばれる広い場所があります。千畳敷は西尾根の中で最も高く、かつ広い曲輪です。防御上、重要な曲輪であり、建物もあったと思われます。

平成23年10月28日

七尾城「太鼓の段(壇)」

厩の段の北側には、「太鼓の段(壇)」と呼ばれる場所があります。本丸や厩の段は東尾根にありましたが、太鼓の段は谷を挟んだ西尾根にあります。

平成23年9月16日

七尾城「馬釣井」

厩の段の東側には、「馬釣井」と呼ばれる井戸があります。馬釣井は七尾城内唯一の井戸であり、中世特有の円形の割石積の井戸です。直径1.2m、深さ4.5mの大きさです。七尾城には、馬釣井の他の飲料水源としては、2カ所の貯水濠があるだけであり、馬釣井は極めて重要な水源でした。

平成23年9月2日

七尾城「厩の段」跡

帯曲輪を西へ下ると「厩の段」と呼ばれる平坦部があります。厩の壇は、武士や家臣達が騎馬で登城した際に馬を繋いだ厩のあった場所です。山を削って造られた南北56m、東西15mの広大な厩の敷地は、石見最大の豪族益田氏の勢力の大きさを物語っています。

平成23年6月30日

七尾城「大手の帯曲輪」跡

二の段西側斜面の帯曲輪では、5m×21.7mの長大な礎石建物跡が発見されました。この建物は、遺物の量が少なかったことから、日常的に使用される建物ではなく、倉庫であったと推測されています。また、城の中心部に到達する大手の側面に建っていることから、防御施設としての役割も持っていたと推測されています。益田家文書では「19代藤兼が城内に11名の家臣を置き、大手の曲輪に1年間隠居して天正10年代に三宅御土居の普請が成就したので下城した」との記述があります。藤兼はこの辺りに住んでいたのかも知れません。

平成23年5月16日

七尾城「二の段」跡

七尾城本丸の北側にある「二の段」は本丸より約1m低くなっていますが、七尾城では一番広い場所です。二の段の北側には堀切があります。平成4年度からの発掘調査では、二の段の北端に2棟の建物の礎石列と庭園跡が見つかっています。また、中国や朝鮮からの輸入陶磁器や土師質土器(かわらけ)等、16世紀中頃から後半にかけての遺物が多量に出土しました。これは城内で酒宴が行われたことを物語っています。これにより天文20年(1551年)の陶晴賢の挙兵に関わった19代益田藤兼が、毛利氏の攻撃に備えて大改修して居住し、天正11年(1583年)に子の20代元祥と共に下城し、再び三宅御土居に居を移したという益田家文書等の記述が確認されました。

平成23年4月14日

七尾城本丸跡

七尾城の最高部に位置していた本丸は、標高約120mで、南側は堀切と土塁で守られ、北側には本丸に接して約1m低い「二の段」があり、その北側には堀切があります。この本丸と二の段が七尾城の主郭部です。本丸北側には瓦葺の櫓門があったことが、平成4年からの発掘調査で分かっています。
本丸跡には今は何もありませんが、ここからは城下が一望できます。また、私の母校である島根県立益田高等学校も見下ろすことができます。

平成23年3月1日

七尾城趾

我がふる里、益田市は中世「益田氏」の城下町として発展した町です。その益田氏の居城「七尾城」は、建久4年(1193年)に益田兼高によって築かれた山城です。本丸跡は標高118m、南北約600mの比較的大きな山城です。
陶晴賢と毛利元就との戦いの頃、当時の当主益田藤兼は陶側についていたので、毛利勢の攻撃に備えて弘治2年(1556年)頃、大改修を行いました。その後、益田氏は毛利に降り、その家臣となりました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍が破れると、毛利氏は防長2国に減封となり、七尾城主だった益田元祥は毛利氏に従って長門須佐(現:山口県萩市須佐)へ移り、七尾城は廃城となりました。現在では、大手門が医光寺総門として残っているだけです。
私は、ほぼ毎月1回、バードウォッチングを兼ねて七尾城趾に登っています。今月からは、この七尾城趾を紹介していきます。
初回の今月は七尾城趾の地形図を掲載します。

平成23年1月24日

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